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お葬式 (mixi 2010年10月10日)

今日は祖母のお葬式でした。

葬式に出るのは自分の父親の葬式依頼で、14年ぶり位でした。
祖母は90歳でした。

5年位前から認知症?が進んでいて僕の事も最近では認識してもらえませんでした。

葬式に出ていろいろと思う事はありました。

人生とは一体何なんでしょうかね?
いずれ人は死ぬのにそれまでは生き続けなければならないですからね。

死を考えるのが生を考えることであり哲学への契機でもあるそうです。
パイドンという人は哲学は死の練習とみなしていたそうです。死が訪れようとするときに平然と死ぬための練習。

まあ、僕は死ぬ日までは、楽しいことを適度にして、いやな事が少ない人生が幸せだと思います。なにより心の平穏が大事だと思っています。

あと、日本では死は不幸であるような表現がされますが、どこかの文化では死は喜ばしいものだとされるそうです。僕は、喜ばしいとまでは思わないですが、必ずしも不幸な事ではないと思っています。楽しいことはできなくなりますが、大変なことからすべて解放されるはずですから。

まあ、人生、適度に頑張ろうと思いました。

wikipediaから下記を抜粋しました。

回復の見込みのない病にかかり、医師などから余命が数ヶ月と宣告されるような場合、人は、自分が死なねばならない、じきに死ぬ、という事実に向き合うことになる。死の定めをどう受け入れるか、さまざまな試みを行う。

死を自覚した人は、一体どのように自己の死の事実と向き合い、どのようにその事実を拒否したり受け入れたりするのか? キューブラー=ロスは、実際に多数の「死に行く人」と言葉を交わし心理治療に従事した経験を総合し、多くの人が辿る「死の受容への過程」を、次のような段階的モデルで示してみせた(参考文献1)。

第一段階:「否認と孤立」
病などの理由で、自分の余命があと半年であるとか三か月であるなどと知り、それが事実であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの間違いだという風に反論し、死の事実を否定するが、否定しきれない事実であることが分かっているがゆえに、事実を拒否し否定し、事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。
第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかける。このとき、当然、そのような形而上学的な根拠は見つからない。それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる、しかし、なぜ自分が死なねばならないのか、その問いの答えの不在に対し、怒りを感じ表明する。
第三段階:「取り引き」
しかし、死の事実性・既定性は拒否もできないし、根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても、結局、「死に行く定め」は変化させることができない。死の宿命はどうしようもない、と認識するが、なお何かの救いがないかと模索する。この時、自分は強欲であったから、財産を慈善事業に寄付するので、死を解除してほしいとか、長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避の可能性を探ったり、死の受容を考え、取引を試みる。
第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。このようにして深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。
第五段階:「受容」
抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「無」であり「暗黒の虚無」だという今までの考えは、もしかして違っているのかもしれないという考えに出会うことがある。あるいはそのような明確な考えでなくとも、死を恐怖し、拒否し、回避しようと必死であったが、しかし、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。人によって表現は異なるが、死んで行くことは自然なことなのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ「死の受容」へと人は至る。
ただしこれは、キューブラ=ロスが多数の「死に行く人」の事例を観察して得たひとつの範型であって、人が全員、以上のような段階を経て、死の受容に至るわけではない。色々な自己の死との向かい合いがあることを、ロス自身も認めている。

僕は多分2段階目の怒りというのは多分ないと思います。善人が早く死んで、悪人が長生きするということはよくありそうですし、自分がそれほど社会に役に立っているとは思っていないですし、特別な人間とも思っていないですからね。
第1段階と第3段階はありそうですね。
第4段階はなってみないとわからないですが、自分は死を受け入れられるような気はします。第5段階はないと思いますね。僕はあの世はないと思っていますから。死んだら無だと思っています。あの世はあると信じていた方が良いというのを本か何かで聞いたことはありますが。根拠は忘れましたが。

自分があと余命3カ月とわかったら、会いたい人達にに会いたいと思います。そして感謝の言葉を伝えたいと思います。

みなさん本当に今までありがとうございました。

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